見えているものだけでは、人はわからない

※この記事では、日常の中でふと感じたことや人生についての想いをエッセイとして書いています。

人を見る時、今、目の前に見えていることだけではわからないことがたくさんある。だから、慎重にならなければならないと思っている。

私の親友は、普段の穏やかさからは想像できない幼少期を過ごしてきた。

母親との体験は、今も彼女の心に傷を残したまま。

それでも、生きてこられたのは祖父母が愛情を注いでくれたからだよ、と教えてくれたことがある。

彼女は結婚して子どもが生まれた頃、生活を守るために母親と距離を置く選択をした。

この夏、私は久しぶりに彼女と旅行を計画していたのだが…

いろんなことがあってさ。旅行、行けなくなったらごめん。

電話がかかってきた。

長く距離を置いてきた母親が重い病を患い、残された時間は長くないと連絡があったという。

彼女は迷ったけど、会いにいくことに決めた。

会うことを決めるまでの葛藤や、去来していたであろうつらい思い出を思うと、重い決断だな、と思った。

病院に着いて、面会を申し込むと、

「ずっと、会ってなかったんですよね?」

と1人の看護師が言った。友人は、その言葉に非難されているような気持ちになったという。

その看護師さんにとっては、病気で弱っている1人の患者さんで、娘が市内に住んでいるのに、一度も見舞いに来ていないという状況だけが見えていた。

友人は、静かに、

「私と母の間に、何があったのか、どんな思いでここに来たのか、あなたはご存知ないでしょう。もし、会わせてもらえないのであれば、私は帰ります。」

と言った。

「後になって、よくあんなに冷静に言えたな、って思ったわ。」

電話で少し笑いを交えながら、そう振り返っていた。

私はこの話を聞いて、最初、その看護師の言葉に驚き、憤りさえ覚えた。

どんな患者さんにも人生がある。その全てを私たち看護師は知る由もない。自分の価値観に任せて、人を非難していいのだろうか。

電話を切った後で、ふと考えた。

自らの寿命を悟った時、彼女の母親は何を思っていたのだろう。

それは、誰にもわからないことだけど、

もしかしたら、娘に会いたいと看護師に伝えていたかもしれない。

その切実な想いに触れるうちに、その看護師は次第に飲み込まれていったのかもしれない。

私たち看護師は、患者さんのより納得できる形の最期をサポートする役割もあると思っている。

その立場で考えた時、思い残すことなく穏やかな最期を迎えてほしいと思った可能性はある。それでも家族を非難するような言葉を向けるべきではないだろう。

それぞれの立場によって、その出来事の見え方や解釈は変わる。

看護師として、患者さんに寄り添うことは大切なことだけど、見えているものだけでその人や家族を理解しているつもりになってはいけない。

その家族の歴史には、当事者にしかわからないものがある。

一般的な理想や、「こうあるべき」という価値観を持ち込んで、周囲の人が簡単に踏み越えてよいものではないのだと思う。

良かれと思った発言であっても、時に人の心に深く踏み込み、傷つけることがある。

だからこそ、私はこの仕事をするとき、より慎重にならなければならないと自分を律している。

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