偏愛|誰にも理解されなくても、私だけの贅沢な時間

※この記事では、日常の中でふと感じたことや人生についての想いをエッセイとして書いています。

私は今まで、何度か、無駄とされてしまいがちなことやものに、人生の余白があって、そこに味があるんじゃないかな、と思ってきた。

価値観は人それぞれあっていいと思っているけど、この頃はやりの、タイパ、コスパを優先することがすべてなのかな?と。

そんな私が、たまたま休日の朝に見た番組で、偏愛という、聞きなれない言葉を聞いた。

人には理解されにくくても、自分が心惹かれる「偏愛」は、その人自身の自己証明(アイデンティティ)であり、人生の活力になるものだと、紹介されていた。

自己証明、って言うとすごく難しい感じがするけど、私は、その人だけの魅力だと思う。

番組では、さまざまな偏愛が登場。

折り紙や包装紙、虫取り、のびたカップ麺…

その中でも、鉄橋が大好き、という方がいた。

自分が住む街の古くて錆びた鉄橋がたまらないという。いつでも、そこにいて、渡っていると、いいよ、大丈夫だよ、って受け入れてくれているような気がする…

父性を感じますね、と話していた。

その方の幼少期を一緒に振り返った。

その中で、彼女は、求めていた父親像を重ねているのかもしれない、と気づいていく。

初めて徒歩で20年間眺め続けた鉄橋を渡る姿が放送された。

「ああ、嬉しいです、この錆も、この蜘蛛の巣も…」

これぞ、人には理解できない偏愛のレベルなのかもしれないけど、ただのマニアではなくて、そこに彼女は人生を重ねていた。

鉄橋を眺める、触る、渡る。鉄橋は彼女の心と重なり、彼女の人生の一部となって、支えている、そんな気がした。

人の評価うんぬんではなくて、偏愛の対象と対峙することで生まれる、喜びや、安心感、懐かしさ、なんとも言えない幸福感などを感じる時間が、唯一無二の価値なのだ、と思った。

だから、趣味とも、単なる好みとも、違うのかなーと思う。

ここまで考えてきて、自分の偏愛って何かな?って巡らせてみる。

自転車も、乗り物も、手芸も大好きだけど…

博物館と私の時間、かな。

以前、一緒に行こうと誘われたことがあったんだけど…この時間は、自分だけの孤高の時間なんです、ってこたえたことがあったっけ。

博物館で、たとえば私の大好きな仏教美術を鑑賞する時間は、人と共有したいものではなくて、古代の作り手との心の交流の時間。

どんな思いで、どんな時代に、作ったのだろう?とか、どんな道のりで日本まで伝わってきたのだろう、とか、精神の旅を楽しんでいるので、誰も入れることができない場所。

だから、何時間もかかるし、ゆったりと満ち足りる鑑賞は、私にはこの上ない贅沢な時間。

これは、人に説明するものでも、共感してもらいたいものでもないな…

番組の解説では、何をするにも「無駄を省くこと」ばかりを優先する効率主義に傾いているなかで、

多くの人が「自分が本当に好きなものは何か?」という自分軸の価値観をじっくり考える余裕や時間を奪われているという。

このスピード社会で、ふと立ち止まって、自分の周りに、好きなもの、安らぎを感じることができるものがあるかな、と見回してみると、

意外なところから、自分だけの、楽しいタネがみつかるのかな、と思った。

これからも、私の余白を大切にしていきたい。

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